平地のコマドリ

2022.05.02

あれは確か6月の肌寒い朝のことだったと思う。私は根室の長節湖畔にたたずんでいた。
この季節、釧路や根室は深い霧に包まれることが多いが、その日は特に霧が濃く、湖は乳白色に煙り水平線と空との区別さえ判然としない。そこにいるのは私一人。物音もしない静寂の世界の中だった。
すべてが茫漠とした景観の中、突如、湖畔の森の中から「ヒン、カララララララララ…」と、馬のいななきにも似たコマドリの声が聞こえてきた。まさに静寂を切り裂く大声である。しかも一度では終わらず、「ヒン、カラララ」「ヒン、カラララ」と繰り返している。一呼吸おいて、遠く、湖の対岸の辺りからも同じ声が聞こえてきた。それだけではない。右からも左からも聞こえてくるではないか。コマドリたちがその美声を競い合っているのだ。
姿は見えない。いや、見えたところで、この濃霧では写真は無理だ。普通なら、その姿をカメラに収めるべく、声に導かれて声のする方へ歩み寄るところだが、どうせ撮影できないのならと、あえて機材を取り出すこともせず、ひたすらその美声に聞き入ることにした。視界のきかない深い霧の中だったせいもあり、幽玄な自然の奏でるリズムに身を委ねる心地よさを存分に感じるひとときとなった。
コマドリの声は、以前、長野県の上高地で聞いて以来のことだった。目を閉じて聞き入れば、ここが平地だとは思えなくなってくる。深い山懐に抱かれているような錯覚を覚える不思議な感覚。亜高山帯のような標高のある場所にいるイメージが強いコマドリが、道東では海岸近くのほとんど海抜ゼロメートルの森で繁殖している。この事実に、改めて自然の奥深さに感じ入ることしきりであった。
それから数年後、私は釧路市の隣、釧路町別保にある釧路町森林公園がコマドリの名所であることを知った。訪ねてみれば確かにその通りで、バードウィークの頃から6月まで、いつ行っても何つがいものコマドリが確認できる。しかも、海岸線から数キロ内陸に入った場所とは言え、ここも全くの平地である。おそらく、同様の場所は付近に何ヶ所もあることだろう。
平地でコマドリが見られる撮れるというのは、道東ならではの、誇るべき自然と言ってよい。平地なら、何せアプローチが楽だ。登山する必要はなく、深い森に分け入る必要もない。まるで近所の公園でシジュウカラを見るようにコマドリに会えるのだから。
こんな身近なコマドリに、今年も会いに行きたいと思う。

 

 

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